top of page

ファイナルファンタジーⅨと終焉にまつわる一考

  • Noema Noesis
  • 2020年9月4日
  • 読了時間: 7分

更新日:2020年9月13日

「なにかが終わる」ってのはなんでこんなに寂し~~~んでしょうかね。


自粛をきっかけにウン年ぶりに据え置き型ゲームに手を出しました。いまでこそただの大食らい短大生ですが、かつては毎日ゲーム漬けの大食らいオタクだった私です。その私とはNoema Noesis通称のえのえアルトパートリーダーのユッミ(注1)です。どうぞよろしくお願いします。

この4月にファイナルファンタジーⅦのリメイクが発売され大きな話題を呼びましたね。私の中でファイナルファンタジーといえばⅨ(注2)ですので、Ⅶの大騒ぎを横目にⅨをプレイしていました。シリーズのなかでもファンタジー要素が強い作品で、ストーリー、造形、音楽などあらゆる点で個人的パーフェクト。主人公はイケイケのイケ盗賊でヒロインは美女美女の美女プリンセスという王道のボーイミーツガールはもちろんのこと、ほぼ岩みたいなオジ騎士や食にしか興味がない親近感湧きまくりピエロなどキャラ立ちまくりな他のキャラクター達からも目が離せない。週1…月2…とじっくりゆっくり進め、いよいよ最終段階に入ったところです。



ところがここから一向に進められないパートリーダー ユッミがいます。


元々このゲームは私が小学生6年時に初めてプレイしたゲームで、細部はほぼ覚えていないものの、エンディングへと向かう過程はぼんやりと頭に入っているわけです。ああここまで来たら終わりだなという予感から、すぐにそのエンディングが脳裏に蘇り、いいようもない寂寥感に襲われます。いまはその曖昧モコモコな記憶に由来する実に身勝手な寂寥感によって、n日も足止めを食らっているということ。


さてゲームに限らず私は終わりが見えると往々にして留まりたくなる傾向があります……アニメ、映画、漫画、小説その他。生来新しいことを始めるのにめちゃくちゃ重たい腰をハードッコイショと上げるタイプの人間ですから、その分終わることに抵抗を感じやすいのかもしれません。一説によれば人類はみな兄弟ということですので、多かれ少なかれ皆さんも「終わりに抵抗を感じた」ことがあるのではないでしょうか。


今回はこの「なんか終わるのが辛い」という感覚について、特にゲームの云々と交えながら少し考えてみたいと思います。

ゲオルグ・ジンメルという哲学者の「額縁――ひとつの美学的試み(注3)」という論考があります。この論でジンメルは、芸術作品の本質とは「それ自身でひとつの全体をなしている(注4)」ところにあり、たえまなく内浸透と外浸透が生じている「自然」との最たる相違であると言っています。つまり、自然が常に世のなかのエネルギーと物質の流通の中にある一方で、芸術は完全にそれ自体で完結 ― 内的には統一、外的には無関心と自己防衛を ― しているために、それが置かれている環境=鑑賞者がいる「世界」との関係を一切に隔絶しているということです。おかげで芸術作品と鑑賞者の間には一定の距離が生まれており、芸術作品を美的享受することができる = 芸術作品を芸術として味わうことができると、ジンメルは述べます(小難しく書きましたが、例えば次の内容を想像してみてください ― 中身を飲み干した空のペットボトルは普段の生活の中ではただのゴミ、あるいはこれから水を入れるための道具にすぎませんが、もし美術館のある展覧会の展示物として超立派に飾られているとしたら、なんかそれっぽく見えますよね)(注5)。


ジンメルは、芸術作品と環境との絶縁を強化するのが「額縁」であると言っています。芸術作品は「額縁」に囲まれることによって(閉じこめられることによって)周辺環境から独立し、その自己完結性が強調されることとなります。ほでもってこのあとジンメルはんは「やわらかすぎるから布の額縁はアカン」「木の方がええんや」とか有機的とか機械的とか精神性とかを述べてはるんですが今回は割愛します。

全体を通じては芸術作品に対する「額縁」がもつ役割に関する美学的論考であるわけですが、ある角度からまとめると、人は芸術作品を見るとき、「額縁」が存在することによってこの世界とその芸術作品の明確な境界線を認識しうると言っている論だと考えられます。


さてこれをゲームに置き換えてみると、その「額縁」的な役割を負っているのは画面を映し出すディスプレイだと言えるでしょう。私の場合はテレビです。

のえのえの中でも群を抜いて一般テレビっ子でもある私にとっては、テレビは生活必需品です。テレビはニュースを読み、流行っている歌を流し、世の人々の活躍を紹介してくれます。いわばテレビは私にとって世情の伝道師であり、良い意味でも悪い意味でも欠かせないものです。

しかしゲームをプレイしている最中、同じテレビの中にはまったくこの現実とは異なる世界が広がっています。そのときのテレビは異世界の伝道師です。キャラクターたちの性格、能力、悩み、人生を映し、プレイヤーに非現実経験をもたらします。さらにその非現実性はテレビの黒い「額縁」によって強調され、私はゲームをゲームとして……この「現実」と無関係なある種の芸術作品として一層楽しむことが出来ます。そしてセーブとロードのシステムによって、プレイヤーはゲームの世界に自由に出入りする権利を得ます。


ところがゲームには必ずエンディングがあります。エンディングを迎えるということはどういうことでしょうか。世界には新しい日々がもたらされ、キャラクター達は各々の人生を歩み出す。……にもかかわらずプレイヤーはその後の様子も見せてもらえず終了。感動したとてひとたびゲーム機の電源を消せばそこには家具の一部としてのテレビがドンと置かれているだけ。テキトーにチャンネルを回せば生身の肉体をもつ人間が喋っている。いたしかたないとはいえ性急過ぎる芸術作品から現実=「自然」への回帰。そんなにいきなりエネルギーと物体の絶え間ない流動に耐えられるわけがないのであります。

芸術作品と鑑賞者との間に距離があることよって美的経験が生じるものの、その距離による隔絶が、時として人を残酷にいたぶります。私はゲームを終えようとする度、漫画を読み終えようとする度、映画を見終えようとする度、どうしようもないこの「いたぶられ感覚」を覚えてしまうため、迂闊に手を出せず、また終われません。「ファイナルファンタジーⅨ」などという、ディスクが4枚も組まれている、プレイに何十時間もかけなければならない、否かけるべき作品にあっては、そのプレイ時間に比例して始めにくく終わりにくい。この自粛期間中に始めたのには以上の理由があってこそだった、と今なら言えますが、うっかり期間後に持ち越してしまっている私です。


結局私はあの素晴らしい世界から突き放されるのを恐れ、なんと8月も終盤の現在も続きをプレイせず、同じテレビで大きな女性のような男性が喋るのを見て笑う生活を送っています。

しかしこれでこそ芸術、あれでこそテレビゲーム、それでこそファイナルファンタジー。

私はその世界と隔絶された芸術のなかに浸かっていたいからこそ、もう終幕直前のあのデータは二度とロードできず、キャラクターを永遠に廃墟に閉じ込めている ― 心を寄せるものたちを犠牲にし、寂寥感におびえながら、私は今も現実を生きているのです。以上ゲームと考えることが好きなユッミでした。あ~~~~~~~~ゲームこわい(注6)。


文:佐々木(ユッミ)


注1)弊団指揮者Yui Katadaによる呼称。女史が留学先であったフィンランドを恋しく思いすぎるあまり、あらゆる固有名詞を二重子音でもって発音しがちだという怪奇現象を証明する事例のひとつ

注2)『ファイナルファンタジー Ⅸ』、スクウェア・エニックス、2000年(Play Station)

注3)ゲオルグ・ジンメル『ジンメル・コレクション』北川東子編訳、鈴木直訳、筑摩書房、1999年

注4)同書、114頁

注5)みんな大好きマルセル・デュシャンの≪泉≫に始まる「レディ・メイドシリーズ」はこの最たる事例

注6)まんじゅうこわい理論。類例に「プリンこわい」「唐揚げこわい」「梅酒こわい」等がある


Comments


  • Xアカウント
  • Facebook
  • YouTube
© by Noema Noesis
bottom of page